切り抜き動画、始めました

動画に関するあれこれを辛口(気味)にお話ししていきます

家族が病気になるということ①

頻繁に更新できてはいなかったのですが、とある事情で他のことに集中していました。

頑張って週に2回は更新したかったのですが、なかなかに難しいものですね。お休み期間に何をやっていたのか、ブログをどうして更新できなかったのかとかいつか書けたらいいな〜って思いました。

今期の月9で放送されている「PICU」を見ていました。
ちょうど放送が終わったばかりなのですが、ずっと涙が止まらなくて。
大竹しのぶさん演じる主人公のお母さんが癌で亡くなった回でした。僕も母を癌で亡くしているのでどうしても重ねてしまいました。

今回は母の闘病について書いてみようと思います。

 

2回に分けて。

 

1回目は発症・・・というよりも病気に気づいてから他界するまで、どんな風に治療を進めていったかについて。2回目は病気とわかるより少し前からの僕の心境を書いていこうかなと。本当だったら僕の心境と共に書いていった方が良いのですが、医学的知識がほぼゼロ、闘病の記録を読み返せないみたいな感じなので、僕の主観が入っちゃうと色々おかしくなるかなと。2回目もすぐに書きますので、このメッセージボトルが届いた方に少しでも興味を持っていただけたらと思います。

 

 

 

1.発覚から治療開始まで

ある年の1月15日くらいだったと思います、母に少し大事な話があってお昼過ぎに話しかけました。僕の話が終わってすぐに、

母:「実はね、少し前からここにしこりがあって・・・」

と、左胸側面を指しながら母が言いました。

僕:「え、何それ?いつから?」

母:「う〜ん、詳しくは覚えてないのだけど、去年の12月かな。あ、いやもっと前からだけど、ごめんなさい」

僕:「どうして謝るの。どうしよう、病院行く?」

情けないことに僕の話ってのはお金のこと。これは次回に詳しく書くけど、そのお金の事と母の病気の事を相談するために、母の姉、つまりは僕の伯母さんの所にいきました。伯母さんにすぐに病院に行きなさいと言われ、その足でそのままお世話になっているクリニックへ。

クリニックから近くの総合病院を紹介してもらい、運よくすぐに診てもらえるとのことで、そのまま総合病院へ。

僕が住む田舎では病院の選択肢というものはかなり限られてしまうのですが、紹介されたこの病院には乳癌の名医がいらっしゃるとのことでした。長年の付き合いがあるクリニックの看護師さんからは、しこりがあるからと言って必ずしも乳癌ではないからねと言葉をかけてもらいましたが、残念なことにほぼ間違いなく乳癌であろうとのことでした。

まずはPET-CTを撮って来てくださいとのことでした。
PET-CTは事前に薬剤(ブドウ糖関連だったかな?)を入れてから撮るCTで、一度の全身を見ることができるのが特徴。確か、早期胃癌以外の全ての癌を観れるとかだったかな。間違いが多々あると思われるので、詳しくは検索してみてください。

地元にもPET-CTを撮れる病院があったのですが、隣の市にある病院が予約が早く取れてスムーズに受診できるとのことで、そちらの病院に行くことなりました。

予約は最短で3週間後、結果が出てもう一度先生の診察を受けるのは3月の第1週の終わりくらいだったと思います。正直、時間がかかりすぎると思いました。

PET-CTはとても時間がかかる検査で、体に薬剤を入れてからしばらく(2時間以上だったように思います)おいてからの検査になります。混んでいて、一緒にいるのも迷惑な感じだったので、お昼を食べながら病院の周辺をうろうろしたのだけ覚えています。

検査が終わって家に戻ったのは17時過ぎくらいだったと思います。

それから2週間近く経過して、再び最初に診てもらった総合病院の診察の日になりました。結果からいうと、左胸の乳癌であると。さらには右胸にも小さな癌があり、他にリンパ、腰椎、頭蓋骨への転移が見られるとのことで、ステージⅣでした。

治療は乳癌治療のガイドラインに沿って行われるという話で、ステージⅣの現状ではすぐに手術をすることは不可能で、抗癌剤治療の後に可能なら手術を行うとのことでした。

 

2.抗癌剤治療

母が受ける次の治療は鎖骨のあたりにポートを作るための手術でした。
これはこれから抗癌剤治療を行うに当たって点滴を簡単にできるようになるためのバイパスみたいなものを作る感じだと思います。
診察から10日〜2週間後にポートを入れる手術とそのまま抗癌剤治療に入るために3日の入院となりました。

手術は簡単なものであっという間に終わりました。
抗癌剤治療は3種類やるという話で、その1つ目が始まりました。抗癌剤治療は1回目は必ず入院して開始となります。その後は通院で週に1度とか2週に1度とか、そんな感じです。この辺は正確には覚えてないのですが、1つの抗癌剤治療には2ヶ月くらいかかったと思います。もちろん、その抗癌剤の種類によって点滴だけではなく、飲み薬のものあったりするのでケースバイケースですが、母の場合は初回は入院であること、点滴での投与であることは間違い無いです。

最初の抗癌剤は真っ赤な色の毒々しいものでした。

母は幸いなことに副作用は強く出ませんでした。
抗癌剤の点滴が終わって家に戻ると、その日は倦怠感が強く出て横になってはいましたが、それ以外は元気そのものって感じでした。

ただ、治療開始からしばらく経ったところで髪の毛がごっそりと抜け始めました。

抜け始めるとあっという間で、抜け毛が凄すぎるからと普段お世話になってる美容師さんに事情を話して切ってもらうことにしました。ベリーショートどころか前髪を少しだけ残した坊主頭になっていました。

 

抗癌剤、3種類だったか2種類だったか少し失念してしまいましたが、抗癌剤治療がひと段落したその年の10月の初め頃の診察で、抗癌剤が予想よりの効果が出ていることを知りました。

「手術できます」

医者のその言葉をとても嬉しく感じたのを覚えています。

3.手術

手術は10日間の入院で行われました。
左胸の大きな乳癌とリンパ節郭清(悪い部分を取り除くの意味)、さらには右胸の小さな乳癌も切除という大きな手術でした。

左胸の乳癌はとても大きなものだったので、左乳房は全摘出となり右乳房は部分摘出。手術は左胸摘出後に体位転換をした後に右側の手術ということで、長時間に及びました。僕と兄貴が控室で待っていたのですが、朝の9時に始まった手術が終わったのは夕方の5時でした。手術は無事に成功したとのことでした。

今はコロナ禍なので入院患者とは面会ができない病院がほとんだと思いますが、当時はコロナ禍前だったので、手術当日は僕が病院に泊まって付き添いました。

経過も良好で、日に日に元気になっていき無事に予定通りに退院。

退院前に看護師さんからリンパを流すマッサージを教わったのですが、僕には少し難しく感じました。単にリンパを流すだけのマッサージなのですが、なぜかやたらと難しく思ったんですよね。
このマッサージを怠ると、リンパ郭清の影響でリンパ液がうまく流れてくれずに腕が数倍に腫れ上がるとのことで、少しビビりました。

4.退院から放射線治療が始まるまで

退院後しばらくは安静にしていましたが、気持ち的な問題もあったのでしょう、10ヶ月ぶりくらいに晴れやかな顔を見たように思いました。ほんの少しずつですが、髪の毛も生えて来ました。ただ、母の場合は年齢が年齢だったので(当時70だったかな)、黒い髪の毛は生えて来ませんでした。グレーの細い髪の毛が少しずつ生えてきて、伸びていきました。

手術が11月の頭だったのですが、放射線治療が始まるのは年が明けてからでした。

クリスマスが過ぎたくらいだったかな、夜寝る直前の母に、

母:「なんかね、頭のこの辺りがぶよぶよする感じがするんだけど触ってみて」

と言われました。
触ってみるとなんとな〜くぶよぶよする感じはしましたが気になるほどではなかったのと、寝る直前で部屋が暗くてよくわからなかったってのもあったのですが、後からこれが僕の後悔の1つとなっていくのでした。

我が家は穏やかに年末年始を迎えました。

しかし、それが最後の穏やかさとなりました。僕の心の中では・・・

5.放射線治療開始から異変の始まり

正月休みが終わってすぐに放射線治療が始まりました。
放射線治療はまた別の病院で受けることになっています。放射線治療ができる病院は限られているとはいえ、僕の住んでいる田舎はあまりにも少なく感じます。これは後編でも書くと思いますが、同じ国、同じ医療水準で治療が受けられるとしても、住んでいる場所によっては平等ではないと感じます。
それでも、もしかしたら放射線治療を車で30分以内の病院で受けられるのは恵まれている方なのかもしれないって今は思っています。

放射線治療は、基本、毎日受ける(それなのに何故か土日祝日は受けられない)、1回1回で効果が出るのではなく設定(癌の状態による)した総量の治療を受けてようやく効果が出るものと説明されました。

総量っていうのは、例えば設定値が100で、1度の放射線治療が10とします。1度の治療を受けて10の効果が得られるのではなく、10回の治療を受けて100に到達したところでようやく効果が出てくる・・・という感じです。

これも概念みたいなものなので、間違っている部分があると思いますので、調べてみてください。

年が明ける前に1度この病院で診察を受けて治療の説明などを受けました。年明けすぐに始まった放射線治療が終わるのは2月の半ば過ぎ、2月の末の差し掛かる頃まででした。

放射線治療が1番きつかったかもしれません。

朝1番で病院に行き、順番待ちをして治療を受ける。会計が終わって帰れるのはお昼ちょっと前くらい。大きな病院なら通常の診察でもこのくらい時間がかかるのは当たり前なのですが、これが月曜日から金曜日まで毎日となると、ただ送り迎えをして付き添っているだけの僕ですら病気になるんじゃないかってくらいに疲れました。冬ってこともあり、積雪が邪魔をすることもあったりで。

家に帰ってくると母と僕2人でダウンするみたいな毎日が続きました。

それでも頑張って休むことなく通院していたのですが、2月に入って母の体に異変が起こります。

母:「腰が痛くて歩けない」

疲労からくるものかな〜と母も僕も思いました。
実際に歩けないわけではなく、最初は杖も不要でした。でも、すぐに杖が必要となり、病院帰りに僕の用事の買い物に付き合った母はお店の中で歩くのが辛そうに見えました。
放射線治療中に見かねた先生が整形外科での受診を段取ってくれました。整形外科でCTを撮ったところ、多分腰椎滑り症じゃないかってことでした。高齢者によくあるやつです。でも、家では僕の支えがないと動けないし、ベッドに横になるにして介護が必要になっていました。父が介護保険を受けていてケアマネージャーがついていたので、ケアマネさんに相談をして母も介護保険を受けて車椅子を借りることになりました。
そのためには為には普段通っているクリニックで診察を受けたりと手続きが面倒だったように思います。父も車椅子、母も車椅子で我が家はちょっと変な感じになりました。愛犬は何故か嬉しそうでしたが。

放射線治療も終盤に入っていきましたが、母の腰の痛みは見てられないほどになっていました。

6.入院

放射線治療が終わってから1週間後あたりに、ずっと治療を受けていた病院での診察の予約が入っていましたが、母の状態があまりにも悪かったので、放射線治療が終わった翌日に急遽病院に連絡を取り、翌日に診てもらえることになりました。

乳癌の先生の受診ではまずその腰が心配だからと、その病院の整形外科に回してもらいました。整形外科ではMRIの予約を取ってもらうとともにコルセットを作るための採寸をしました。数日後にMRIの予約が取れました。

そしてその前日の夜のことです。母が病院で診てもらうのだからお風呂に入りたいと言ったので、僕が手伝ってお風呂に入りました。

僕:「髪も洗ってやるよ」

自分でできるからいいと母は言ったのですが、いいからいいからと洗ってあげました。これまで僕も必死で闘病に付き添っていたとはいえ、大きなミスをしていたことに気づきました。年末に母が頭のこの辺がぶよぶよすると言っていた場所が、赤くなっていました。そして、確かにぶよぶよに。

僕:「ねぇ、お母さん。あまり心配することはないと思うけど、頭のこの部分が少し赤くなってるんだ。明日の受診の時にお医者さんに伝えてね」

母:「なんだろうね〜。痛くも痒くもないのにね」

母の癌は腰椎と頭蓋骨に転移している・・・
最初のPET-CTでわかっていたはずなのになぁ〜。年末の時の段階で警戒しなかった僕の完全なミスです。

MRIを受け整形外科の先生の受診です。
診察室ではMRIの写真が見れるようになっていたのですが、パッとみて僕でもわかってしまいました。

整形外科の先生:「ここのところになるのですが、腰痛はこの癌のせいになります」

その後、乳癌の先生の診察を受け翌日から入院することになりました。

7.最期

入院は3月3日だったと思います。
説明や手続きが終わり、母は笑顔でした。なんとなくですが、少しホッとしたようなそんな雰囲気だったと思います。
乳癌の先生からの説明はモルヒネ投与についてのものでした。

モルヒネが入り、しばらくして母がぼんやりするようになりました。モルヒネの成果な〜って思っていたのですが、そうではありませんでした。僕は毎日母の病室に朝から夕方までいたのですが、母と話をしていると僕の携帯電話が鳴りました。

着信:○○総合病院

病院にいるのにその病院から電話が来るのもおかしなもんです。

僕:「お母さん、○○くんから電話がきたからあっちで話してくるね」

そういって病室を出て電話に出ました。先生が少しお話をしたいとのことだったので、そのまま先生のところに。

先生:「脳は髄液ってものに浮かんでるのはご承知ですか?」

僕:「はい」

先生:「実はその髄液に癌が転移していまして・・・」

先生の話だと母がぼんやりしているのはモルヒネのせいではなく、その転移のせいだろうと。治療法としては抗癌剤もあることはあるのですが、効果を得られるのは難しい。可能性があるとしたら放射線治療だろうと。

入院している病院では放射線治療ができないので、民間の救急車を利用して以前放射線治療を受けていた病院に移動して治療を受けることに。

放射線治療を受ける手筈が整った頃には母の意識は無くなっていました。

入院している病院に行き、民間の救急車に乗ったところを見て、放射線治療の病院に移動するっていう感じで初日は終わり、翌日からは放射線治療をする病院に僕が先に行っている感じで。どちらにしても午前中に母の病室に行っているので、病院間の往復をする感じにはなっていましたが。

何回くらい治療を受けたかな。

5回くらいだったか、もしかしたらもう少し少なかったか。

午前10時くらいに病院に行こうと家で準備している時に病院から電話が入りました。話があるとのこと。

先生:「現状だと放射線治療のために移動するのは難しいと思います。移動中に何があるかわからないのです。」

つまりは母の治療はここで終わりということでした。

どうしますか?

そんな風に問われましたが、選択肢は1つだけでした。

僕:「これ以上、母に辛い思いさせたくないです」

そんな風に答えるくらいしかできませんでした。

 

それから2週間とちょっと。

母はずっと意識のないまま、他界しました。

8.次回へ

淡々と書くととても冷たく感じますが、僕の感情の動きは次回へ。
なんか、しっかりと覚えているようで忘れてるし、忘れているようで覚えているもんだな〜って感じました。何度も当時を思い出して泣きながらだから少し時間がかかってしまいました。しかもこんなに長文になるとは・・・

次回は今回よりも1ヶ月前のところから始まり、1週間後くらいに終わるのでもっと長くなるかもですね。

お付き合いありがとうございました。できるだけ早く次を書きますね。